フリーランス言語聴覚士はしっ子の、こだわらない話

~北のマチのフリーランス言語聴覚士の医療教育系ブログ~このブログを本にしたい

クォリティ・オブ・ライフ

【第97回】

 

クオリティ・オブ・ライフ

 

f:id:hassikko:20200521222928j:plain

 

 

今日は、悲しいお知らせがありました。

 

とてもお世話になった方の突然の訃報。

 

心は未だ、動揺し続けています。

 

 

これまで、たくさんの人の死を見届けてきましたが、

人の「死」は、決して慣れたくはないこと。

 

どんな一瞬の出逢いでも、

出逢うことが決まっているからこそ、

 

自分と出逢ってくれた人の死を受け入れることは、

それ相応の時間が必要です。

 

 

生前、その方を大切に思っていてこそ。

 

 

 

 

言語聴覚士として、

 

リハビリや看取りの現場で

 

 

QOL=生活の質、命の質は、臨床上よく問われることです。

 

 

患者様の長期目標を設定する時、

QOLの維持、向上」と表現することってありませんか?

 

 

 

私はこれ、少し暴力的だなって思います。

 

 

なぜなら、

周りから見てQOLの維持、向上はわかるものではないし、

 

QOLが維持されていますね、向上しましたね、なんて

 

本人以外の人が評価すること自体、無理がある。

 

全ては主体性をもって取り組まれるべきもの。

 

 

 

生活の質、命の質

 

 

こんな大きな計ることのことの出来ないものを、

本人不在で判断できるものではないはず。

 

周りの人がそれを設定するのは

とても勝手なことだと思うのです。

 

 

全てはその方の心が決めること。

 

 

 

そして、医療人として、介護人として

 

人の人生に関わるものとして、

 

 


自分を大事にできない人が、

他人を大事にできるわけがない。

 

 

家族を大事にできないなら、

他人を大事にすることもできない。

 

 

 

と、思っています。

 

 

 

「幸せの範囲」は小さい範囲から、と言います。

 

まずは、自分や家族を精一杯幸せにする。

日々の頑張りに、働きに、ただ居てくれることに感謝する。

 

そうして輪が広がると、

外で出会う人へも自然に敬意をもって接することができる、といいます。

 

 

 

これは、その通りだと思います。

 

 

外ではいい顔をして、家では身勝手し放題。

 

そんな人もいますが、その矛盾はどこかで必ず

外の人にも気づかれます。

 

そして、見抜く人には決して信用されないんですよね。

 

 

まずは、自分を、家族を

近い範囲で、近い人から幸せに、愛を注ぐ。

 

 

そこから、生活の質、生命の質は高まっていくのではないでしょうか。

 

 

人の「死」は、いつも大切なものを気づかせてくれます。

 

 

「死」を見届けられたことに感謝して、

 

これからも、出逢ってくれた人には、

たくさんのありがとうを伝えていきたいです。

 

 

 

 

 

言語聴覚士と料理の関係

【第96回】

言語聴覚士と料理の関係

f:id:hassikko:20200521223019j:plain






子どもの頃、ばあちゃんの料理の音が好きでした。



木の厚いまな板に

今とは違って重めの包丁



ゆっくりトントントントンと
切る音が聞こえる



赤味噌の味噌汁に

甘いカレー


納豆はまな板で細かく切り
ひきわり納豆にしてくれた。




そんなばあちゃんの
料理初めの言葉は


「あぁ、めんどくさい」


弱くなった足腰に
めんどくさそうに立ち上がり


トントントントンと始まる。




料理は好きじゃなかったような
ばあちゃんですが


すごく自然体で

その食べるまでの一連の過程が


幼心に好きだったことを
思い出します。






そう、料理って
めんどくさいもの。





手間をかけ、
丁寧に工程を重ねるほど



おいしくなるのはわかっているけれど



出来れば


チャチャッ、パッ、

ジュージュー、サササッ


で完成、

それで終わりにしたいも本音。





だけど、


やっぱり手作りはおいしい。


炊きたてのご飯のツヤツヤのおいしさは、


何度食べても飽きのこない
食卓の永久不滅の天下一品。



ただ焼いただけでも、


冷蔵庫の余り物をいれた
味噌汁でも、



手作りご飯は

しっかり腹を満たし、

体の隅々まで行き渡る感じがする。



そして、


やっぱり手作りごはんを食べたあとは


調子がいい。



体も心も気分がいい。




手作りごはんで

自分の体を癒してやるって、


そんな力がある。



自分の体を自分で整える。


日常でできる簡単なメンテナンス。




心がざわつくとき、

日常に追われているとき、



自然と料理から離れていて
ハッとすることがある。




そして、また


面倒でも、嫌々でも


キッチンに立ち、


なんとなくいつもの工程を始めると



だんだんと心も体もノッてくる。




そしてまた、

自分にあったリズムが整ってくる。




料理って不思議。


人の細胞を輝かせる力がある。





私はいつもこんなことを日々考えながら、


めんどくさいとおいしいを行ったり来たりしながら、


自分と家族の「食」を意識しています。







成人領域でも小児領域でも、


言語聴覚士のお仕事は、「食」に大きく関わります。





「食」は「いのち」。




「食べる」という行為は、「いのち」を育む行為。





私たちは、明日からの生を真正面から受け止めるために
生涯、食と向き合っていく。



そのためにも、
自分が何を食べたいかがわかり、

自分が今、何が不足しているかをわかることが必要です。




そして、

けして料理上手でなくてもいいので、



自分が今、元気になりそうな食べ物、
身体に取り入れたい食べ物を用意できる力、



自分を満たし、喜ばせられる食事を
用意できるか、はとても大切なことです。





自分の「食」に向き合えるからこそ、

人の「食」にも向き合うことができる。





自分の一食、一食に心の注意を向けられる人は、

人の一食、一食にも細心の注意を向けられる。






それが、看取りの現場だったら、

最期の一口を大切にできる人なのでは、と思うのです。






そして、自分で調理していると、


嚥下食の工夫やバリエーションなども浮かんできます。


ご家族へ伝える言葉も、リアリティーのある助言につながってきます。




刻み方、あんかけの程度、
卵でとじたり、やわらかさの具合いを普段の料理で感じたり、



最近の調理家電の実践や
調理関係の新商品もどんどん試してみるなど、



どこに嚥下訓練の場にいかせられる「材料」が転がっているか、
わからないものです。



臨床の場での改善点は、
思わぬ暮らしの場に転がっていることもあります。







料理が出来なくたっていい。




「食」を適当にしないで、
自分で食事を用意してみる。





自分の「食」と向き合うことで、
人の「食」にも向き合うことができる。





私は、言語聴覚士と料理は
とても大切な

切っても切れない関係だと思っています。

【特別コラム】フリーランス言語聴覚士になるまで~自分史を振り返る

【第95回】

特別コラム

フリーランス言語聴覚士になるまで~自分史を振り返る~」

f:id:hassikko:20200521222457j:plain




さて、どこから振り返ろうか。


頭の中に数々の場面が回想される。


そうだ、ここからにしよう。


私がフリーランス言語聴覚士になって
4年近くがたつ。

思えばいろんな事柄を手掛けてきた。


それは、事業と呼べるほど
しっかりとかっちりとしたものではなく、

「こんなのあったらいいな」が

ひたすら形になるように動いてきたもの。

成功か失敗か、そんな二択ではない、

大きな発見と数々の出会いと
素直に動くことの喜びを感じさせるものだった。


こんな形で働けるようになれたこと。


これは、ビジネスモデルでも
成功ノウハウでもなんでもない。


一人の女性として
一人の言語聴覚士として


働くことを見つめ直し、
暮らしを見つめ直し、
生き方を見つめ直した

精一杯、自分のうちなる声を聞き続けた結果、今に至るというお話です。



〈草創期〉

北海道の片田舎で3女として産まれる。

365日外で遊びたい、ままごとなんて大嫌い、冒険や新しい遊びをしたい

そんなエネルギーをもて余している子どもでした。

じいちゃん子で、
よく一人で遊びに行って

何をするでもなく、古い家にじいちゃんと過ごす時間が好きだった。

高校生になり、進路選択で
将来は人の役に立つ仕事がしたい、と漠然と決まっていて、

ふと目にした職業紹介ページで「言語聴覚士」が紹介されていて

その「珍しい」「他の人がやっていなさそうな」「言葉のスペシャリストのかっこよさ」に釘付けになり、

まだ一度も出会ったこともない言語聴覚士という道を歩むことを決める。


当時、
徐々に脳血管性認知症の症状が出ていて独居が難しくなったじいちゃん。


少しの間だけ一緒に暮らした時期のこと。

高齢者と暮らすということは、
当時、女子高生花盛りの私には辛かった。

あれだけ好きだったじいちゃんなのに、優しくできず話しかけることも、視界にはいることさえも躊躇していた気がする。


「まだまだ子どもだ」


じいちゃんが私にいった言葉が忘れられない。


そんなじいちゃんが次第に嚥下障害になってきた。
 

高校生の時から、「口から食べられなくなること」を考えるようになった。


言語聴覚士を目指しているのに、
嚥下障害の治療が言語聴覚士の職域とは全く知らずに。


知らず知らずに
引き寄せられるように

この世界の扉を叩いていた。



言語聴覚士養成校に入り、
専門性に苦戦しながらも

アルバイトでお小遣いを捻出し
「国家試験浪人」にならないように、
必死で3年間を過ごした。

当時の仲間は戦友のようで、
他の友人達とも一線を画している。


なんとか滑り込み合格、
晴れて言語聴覚士免許取得し

これまた滑り込み就職し、

当時、何も知らなかった介護保険の世界へその後どっぷりつかることになる。



〈開拓期〉

就職してから、
それはもう夢中だった。

奨学金の返済もあるし、
他の働く場所だってない。

ここで一人前にならなければならない。

つねに背中を押されていた。

PTの仕事もOTの仕事も盗めるものは盗んで、自分のアイテムを増やしていった。


やるしかなかった。


何より私にはコンプレックスがあった。


持ち前の適当さやドジさ、
イジられることも度々あった。

それ自体はいいけれど
幼少期からの負けず嫌いもでて、


就職してからも
「ちゃんとやってるの?」と友人達から言われることは我慢ならなかった。


気づけば5年経ち、
自分でも言語聴覚士らしい仕事ができるようになったと自信がもてるようになってきた。


そこでふと、疑問がわいた。



「私はここ以外、なにも知らない」



言語聴覚士として働くこと。

この職場では、ある程度みとめてもらえていると思う。裁量権もある。


でも、他の場所では
私の言語聴覚士としての価値はどうなんだろう?



ここに気づいたとき、
怖くなった。


このままここでキャリアを積み続けていいのか、その問いが頭から離れなかった。


スキルアップのため、毎月お金と時間をかけ研修会に参加し、

その後、管理職を任されるなど経験しながらも

そこに真の魅力は感じなかった。



「自分の言語聴覚士としての価値」


ずっと、このキーワードが
頭をこだましていた。




〈変革期〉

当時、結婚3年目。

共働きで二人ともそれなりの収入があって、

自炊せず、欲しいものを買い、
遊びに出かける


そんな適当な生活をしていても
なんとなくお金はある状態。


それがひどく生活感のないものに感じ、

働いて得たお金が何に変わっているか
実感がなく、


ただ時間とお金を等価交換しているように思われた。


夫婦でいても、寄り添いあっているというより、それぞれが自分の生活を遂行するために、毎日を暮らしている感覚。


人には「それの何がいけないの?」と言われるかもしれないが、

私にはそこに「生活感」というかけらも感じられなかった。



もっと、時間を1日を大切に使いたい。

晴れた日は晴れの一日を思う存分楽しみたい。

誰かの決めたスケジュールに沿って時間を消費することはしたくない。

毎日同じ人たちと顔を合わせ、
10年後も同じように挨拶を交わし、
出会う人、交わされる会話、新しい情報に限定された生活を送りたくない。


なにより、もう一度
一から「時間とお金」を見つめ直し、
「人」との関係を構築したい。


そう、心が求めていた。


実力主義の世界に身をおき、
評価される自分に価値をおき、

いつしか自分にも周りにも優しさがなくなり、体型変化が止まらなかったとき


自分にたくさんの「我慢」を強いていると感じるようになった。



私に、「時間」という絶対的な価値を教えてくれた、「看取り」。


この人生は1つしかないこと。
時間には限りがあり、有限であること。
無限だと思っているものは偽りであること。


死から生を学ぶ、死生観を
20代のうちから学べたことは

自分のこれからの生きる指針となる財産となった。




「今」を生きたい。



忙殺される日々の中で、
その言語聴覚士という仕事の魅力を失いかけながらも、


やっぱりこの仕事が好き、と
再びこの職業を選び直し、
この仕事を自分の生き方とすることに決めた。


たった一度の人生、
「人のために時間を使おう」

多くの尽きていく命を前に
自分の命の使い方も強烈に考えるようになった。



働きたい場所がないなら、
自ら働きたい場所をつくるしかない。


働きたい仕事内容が合わないなら、
自らその仕事内容を生み出すしかない。



価値創造。



言語聴覚士として名乗り、
働くにはこの道が自分らしいと思えた。




〈奔走期〉


フリーランス言語聴覚士


当時、フリーランスという言葉が流行りを見せていた頃。


でも一般人にとっては
組織に所属することが当たり前。


ましてや、医療や介護業界で医師の指示のもとに働く言語聴覚士が、

いかにして仕事を得るのか
周りからの理解は示されているとは言い難かった。


しかし、井の中の蛙、大海を知らず。


ローカルで専門性がある、ということで
仕事の依頼がくると、メールの問い合わせばかり見ていた日々。


ほとんど営業活動もしていないのに。

本当に仕事はやってくるものだと思っていた。


当然目が覚め、

できる小さな一歩を探し、
「嚥下障害予防」にシフトを置き、
始動することになる。



なぜ「嚥下障害予防」だったかといえば、

あの日のじいちゃんがあったから。

「まだまだ子ども」と言われたじいちゃんに、言語聴覚士として向き合えたのはわずか7日間。

最後は臨終の場にもいられなかった。



看取りの命の現場で
たくさん立ち会わせてもらった

最後の命の尽きるとき。



最後の姿が美しくあるように、
早期から嚥下障害を知り、予防ができることは、その人の最期を決める重要なものと思われた。


なにより、

自分の生きた時間も
他人の生きた時間も

大切にしたかった。



後悔のないように。

生きる選択肢の上に、「嚥下障害予防」があるように。


活動基盤を作り、

講演依頼や講師など、少しずつ活動の機会に恵まれるようになってきた。


同時に、かつて願った

これまでに出会っていないたくさんの人たちと出会い、仕事を共にしたい


その願いのもと、


コラボレーションなどの機会も増えてきていた。


段々とチャレンジすることへの恐れが遠退き、行動のスピードが加速する。


その後、言語聴覚士が営むカフェの経営、嚥下食の開発など多岐にわたる挑戦をすることになる。

  

〈移行期〉


移行期、今。


今、私はすごく自由に感じている。



この約4年間を通じ、

チャレンジと修正を繰り返し


フレキシブルな働き方が身に付いたと感じるから。


なにかに固執するわけでもなく、
フリーランスの本当の意味を、
そして価値を、真に感じられるようになったことが最近であるからだ。


ずっと、事業として形にしなければと
焦っていた。


事業化、収益化、

形にこだわり、継続にこだわっていた。




でも、


このコロナショックの今。



世界が、日本が
大衆が、個人が

大企業も中小企業も

働き方、生き方、考え方



変わることを余儀なくされる今、


結局、素直に変われた人だけが
衰退せず残っていく。


この原則は古代から変わらない。



変態すること。
つまり、成長にあわせ変化させること。



いつの時代もこれができなければ
淘汰されるだけ。



安定なんて、安心なんて
そう思いたい思い込み、

儚い幻想でしかないのは悲しい事実だ。



だから、
今日も私は、活動の軸は変えず
その「在り方」は自在に変えながら、



自分の限りある時間を使って
何を表現し、

どんな人を幸せにしたいのか


こだわりながら考え、行動変容していく。



成したいことは、決まっているから。



その実現に至るまでのステップを
いくつも持っている人は強い。


過去や経験に縛られる人は
変化に弱い。



ふとした時にいらぬ考えに頭が及び、
すっと悩みの中に入り込んでしまうこともあるけれど、


その時は何度でも
自分のうちなる声に耳を済ませ、


自分の人生軸に定めた
自分の生涯の仕事を誇りに思いながら

丁寧に見つめ直せばいい。



フリーランス言語聴覚士になって
心からよかったと思う。


出会いや経験、
組織外だから起こる異業種とのマッチング


楽しくて
自分の未来に期待して


また今日も未来を描く。



この人生の生業における思いはきっと、
水をかけても消えない炎のように


これからも燃え盛っているだろう。


フリーランスだからこそ、
その火加減も自由なのだから。

あなたとあなたがいてくれるから

【第94回】

あなたとあなたがいてくれるから

f:id:hassikko:20200521222347j:plain




いつもこのブログに訪問くださり
ありがとうございます。




今日はすごく当たり前のことを
書きます。



でも、当たり前すぎて
見逃してしまう大切なこと。





すべての感情や経験は、
相手がいないと成立しないということ。




この春、お仕事で
新しい環境が始まったり、

新しいメンバーを迎え
仕事を教える側になった、

そんな方も多いと思います。





なんでこんな言い方するんだろうって、

なんでそんな態度とるのって、




そんなつもりで言ったんじゃないのに
伝わらない


逆効果になる、



なんでなんで、



そんなことも今時期は
多いかもしれません。




特に指導者側にまわるとき、


思ってた行動をしてもらえない、

素直に聞いてもらえない



そんな風に感じることだって
少なくないものですよね。




でも、仕方ないんです。



自分と相手は違うから。



自分がわかったことが、
相手も同じ過程でわかるようになるとは限らない。


知識量、理解力、処理速度、想像力…



人と人が同じようなステップで成長していく、そんなことはあり得ないことです。




すごく当たり前のことを
言ってしまいますが、



後輩がいないと指導はできません。


受けとる相手がいないと
今のような悩みを持つこともできません。



すべては経験。



相手がいないと
経験することもできない


相手がいない
と学ぶことのできないこと


なんですよね。





私はかつて、指導にあたり
気ばっかり焦っていた時がありました。




早く一人前にしてあげたい。



その思いは立派でも、

相手にとっては
逃げ場をなくされているように

感じていたのかもしれません。




どこかで私の中でも


「私はこれで成長してきた」から、


この通りにやれば上手くいくのに、


そんな様に相手を当てはめようと
していたのでしょう。




一向に心は繋がらず、
すれ違いを感じていました。




相手がいるから教えられる、

受け取ってくれる人がいるから
伝えられる、



そんな当たり前の原則を

すっかり忘れていました。




でもね、


本当に

すべては
相手がいるからできること。




たとえ悩みであっても、

たった一人では悩みも経験もできません。




成長するためには、


自分以外の相手が必要。



これは職場でも家庭でも同じです。




あなたがいるから成立する。



あなたとあなたがいてくれるから
見えてくる世界がある。



思うようにいかないことを
相手のせいにすることは簡単です。



でも、それでは
いつまでたっても解決しない。




私が過去の経験で得たものは、


「自分と相手は違うということ」と、


「待つこと」


でした。




自分一人のペースでやっている時には

学べない経験。



まさに相手がいたから
知れたことでした。




みなさんはどうですか?



「いてくれてありがとう」

この気持ちを根底にもてるかどうかで、

言葉や態度は変わってきます。




人間関係はどちらかが
窮屈に感じると成立しない



相手に向き合う心に
少しだけ余白を持てると、


相手を追い詰めてしまうことも
防げると思います。



人の心と人の心。



いずれも毎日変わる生物です。



合うときも合わないときもある。



だからこそ、


そもそもが「相手がいないと成立しない」ことを踏まえた上で、



少しだけ余裕を持ちながら
向き合っていけると


関係性は変化していく、


相手の成長度合いで
自分を責めたり、モヤモヤしたり


必要以上に自分のエネルギーを
そこに割かないで、



適切な距離感をもって
関わりあいをもてるのでは、と思います。




自分も相手も苦しめることなく、
適切な距離感を考える。



そのためには、
「あなたとあなたがいてくれるから」


そんな視点も大切だと感じています。

今できることを粛々とやる

【第93回】

今できることを粛々とやる

f:id:hassikko:20200521222255j:plain




今、皆さんは
どんな毎日をお過ごしですか?


誰もが認める非常事態。

なかなか思うようにいかない
毎日かもしれません。





それでも、

それでも




いかにして主体的に毎日を過ごすか、


これが私たちに今、出来ることです。




振り回されるではなく、

主体的に時を過ごせるか。



一日のうちのひとつでも、
いくつかでも構いません。



朝はこの時間に起きようとか、
夜ご飯はこれを食べようとか、


少しだけスクワットしよう、
あの人のYouTubeを見ようでも、



なんでもいいので




自ら選び、自ら決めたものが



一日のうちにいくつあるかで


今日という日を主体的に送れたかが
決まってきます。




一日の連続が毎日。



少しだけでも
主体的に過ごせると、



心はとても気持ちのいいものです。


体も少し軽いものです。




そして、


「これがやれたから、これもやってみよう」




少しだけ心がプラスに働いて


「ちょっとやってみるかモード」に
アチェンジ。



そうして、
「どうでもいいや」モードから、


「やってみるか」モードへ
変化していきます。



そうして、
自分で自分のリズムをつくることができたら、


それは誰かや何かに振り回されない


「主体的」といえます。




これ、とっても気持ちのいいものです。



自分で舵取りができているから。





いま、急に推し進められた
リモートワークに


右往左往し、振り回されぎみな人も
少なくないと思います。




思ったようにいけない、


そんな時こそ



自分でコントロールできる範囲のものを

思ったようにする




ここから、徐々に


自分らしい

心地よいペースが掴めてきます。





イライラしたらこっちの負け。



ストレスを人にぶつけたら
悲しみが増えるだけ。




少しでも心地よく時を過ごせた方が、


家庭も仕事も自分の体の調子だって



いい方に向かっていきます。



そういう風になってるんですよね。





自分が心地よいリズムで
自分のペースをなるべく乱さない。



誰かや何かにペースを乱されることを
良しとしない。




少しでもいいから
主体的に日々を送る。




これが、
今できることを粛々とやる



ということに、繋がってきます。




コントロールしようとする人、
コントロールしようとするマスメディアに
惑わされないで



私たちに今できることを
粛々とやる、



慌てない、乱さない、乱されない




どうか、落ち着いて時を過ごし、
判断できる人が広がりますように。



そう願っています。

その行動はなんのため?

【第92回】

その行動はなんのため?


f:id:hassikko:20200420075241j:plain




いつもこのブログに訪問下さり
ありがとうございます。




本日のテーマ、ずばり

その行動はなんのため?



人が何か行動を決める時、

そこには何かしらの「動機」があります。




無意識に選択している行動も、

すべて自分の中で判断し、行動に結びついています。



習慣的行動ならほぼ反射的に判断しているし、




初めてのものなら、判断するまでにじっくりと

過程を踏んで行動に結びついているものです。





この時、行動を決定するために

もとになる「動機」があります。





自分の中から湧いてくる内発的動機づけと


外部からやってくる外発的動機付け





大きく分けるとこの2つ。





さてさて、この動機付け。



考えてみると面白いものなんです。





例えば、
「この分野を勉強しなさい」と誰かに言われた時。



内発的動機付けでは、
きっかけは人から言われたことだけど、



「自分に必要な勉強だ!」と
自ら熱心に取り組む。




その点、外発的動機付けでは、

「言われたから仕方ない」としぶしぶやる。



怒られたくないから。

嫌われたくないから。

やる気がないから、そこそこに取り組む。





さて、効果的なのはどちらでしょうか?





もちろん同じことを取り組んでも、

実践的で実学に結びつくのは前者ですよね。







例えば、
社会に必要だと思う新しいサービスを始めようと思ったとき。




自分の経験に基づいて、

苦労している人を見てきたから、
その人たちが幸せになれるサービスを新たに作りたい


内発的動機付けは、
自分の中から湧き出てくる動機です。




対して、



外発的動機付けでは、



自分ではそのサービスが必要なのか、
よくわからないけれど、


周りが勧めるから、きっと稼ぎになりそうだから
〇〇さんに喜ばれそうだから、



自分の内からくるものではなく、

外からかかる言葉や期待、
誰かの意志にコントロールされるように行動決定します。





この行動決定における
内発的動機付けと外発的動機付け。




行動のもとになる「動機」が長く持続し、
目標達成に導きやすいのは、


内発的動機付けの方だそうです。





ここまで読んでくださった方なら、

当然だな、と思うかもしれません。





誰かからそそのかされたり、
無理矢理に指示されたりしたものは

集中して行動できるのも一時的、




自分から主体的に選び、取り入れたものは

やる気みなぎり、
目標達成まで最後まで走り抜けられる。




こういった仕組みになっているんですよね。






さらに心理学でいわれていることを
付け加えますと、



ある恐ろしい研究があります。




ある実験の現場において、

実験指導者から、被検者Aさんは、被検者Bさんに
痛み刺激を加え続けてください、と指示があります。



被検者Aさんは、自らの意志では
被検者Bさんに痛み刺激を加えることを抵抗します。


ですが、自分の行動のもとになる実験指導者の指示を受け入れると、
被検者Aさんは被検者Bさんへ痛み刺激を加えることができるようになります。



はじめは、弱い痛み刺激から。

徐々に強い痛み刺激になり、
最後には被検者Aさんはかなり強い痛み刺激を被検者Bさんに与えるようになる。



人間は、自分ではない人の指示によって、
非道なこともできてしまう
、ということが証明された実験です。




そこには自分の意志はなく、
「言われたからやっただけ」という構図ができるからです。




本人に罪意識はない。



恐ろしいですよね。




こうして実験で客観的にみると、恐ろしいですが、

実はこのようなことは実生活でも

日常よく行われていることです。




オレオレ詐欺の売り子役の人も、

お金を取りに行けと言われたから受け取りにいっただけ。

直接加担していないから、罪の意識はない。




学校のいじめの現場で、

学校の裏サイトの空気を読んで
誰かの悪口をみんなと一緒に書き込んだ。


首謀者が作った流れがあるから、
自分は空気を読んでその流れにのっただけ。


そこに罪の意識はない。





人間って、恐ろしいものです。




行動決定にもとづく
内発的動機付けと外発的動機付け。




外発的動機付けは悪いものではありません。



初めは、外発的動機付けがきっかけになることも多いからです。



「やれ」と言われてやってみたら

意外に楽しく、自分に合っていた、
そんなこともよくあることです。




それは、
きっかけは外部からのものだったけれど、

その後は自分のものにしていったからですね。




少し難しい話かもしれませんが、


大事なことは、


勇気をもって何かを始めるとき、



その「動機」は自分の中からのものなのか、

外からのものなのかを意識できるといいと思います。



なぜなら、
内発的動機付けにもとづく行動の方が、
効果を持続し、発揮されやすいから。




なにも難しい理由ではなく、


単純に自分がこれを好きだから
という理由でも大丈夫です。



大切なことは、
その行動はなんのためにしているのか考えること。



同じ仕事一つするとしても、


誰かの目を気にして、
仕方なく取り組むよりも、



「これは自分にとって勉強になる仕事」と思い
取り組んでくれる方が、



頼んだ方も気持ちいいし、
その姿勢は見ているだけでもわかるものです。




今、全世界は初めて遭遇するウィルスとの戦いに、

本来の自分の仕事ができず、

やる気がわかない人も多いかと思います。



このブログを読んでくださっている
医療、介護、福祉関係の皆様なら


通常業務ではなく、
感染対策で毎日消毒作業ばかりしている、


こんな仕事は自分の仕事じゃない、
とつい思ってしまう人もいると思います。



でも、本当に本当に
無駄なことって世の中何一つないものです。




問題は、同じことを経験しても、

そこから学べる人と、学べない人がいるという事実。




ぜひ、どんな事態でも、
少しでも前を向いて取り組める人でありますように。




「行動」から色々と考えてみました。

成長にあわせてコミュニティやツールは変化する

【第91回】

成長にあわせてコミュニティやツールは変化する

f:id:hassikko:20200419102049j:plain




いつもこのブログに訪問くださり、
ありがとうございます。




みなさんは、
月日の変化や自分が成長するにつれて、


これまでの関係が窮屈になったり、
居心地が悪くなったことはありませんか?



居心地のよかったグループに
昔と同じような感覚をもてなかったり、



以前は当然のように
受け入れられていたものが、


違和感を感じて、
ひどく落ち着かなかったり疲れてしまったり。




どうして、自分はこんな風に思ってしまうんだろう。




以前は、私もそう感じていました。




大切に思っていた属性が、
自分の中で変化してしまうことは

大切だったものがなくなってしまったようで悲しいし、



自分にとっては、
かつての大事な時間が変化してしまうようで怖いことだったからです。






でも、自分の成長と共に、

これまでのコミュニティが変化することは


成長に伴う、ごく自然な変化なんですよね。





ここで、コミュニティとは何か、
一度整理します。



コミュニティ(共同体)とは:
英語で「共同体」を意味する語に由来。同じ地域に居住して利害を共にし、政治・経済・風俗などにおいて深く結びついている人々の集まりのこと。(Wikipediaより引用)



あるコミュニティにおいて、

そこに属する人達も様々な経験をして、
年月とともに成長していたら、


そのコミュニティはおそらく互いに成長できる
相互に依存しあわない良い関係です。



それは「成長」のコミュニティと名付けることができます。





対して、



「いつも同じ話」「いつも同じ遊び」「いつも同じ登場人物」



同郷の友達など、とても心地よかったりしますが、

自分にとって成長をもたらしてくれるものというよりも、

「帰ってくる場所」であったり、「癒し」を感じるものかもしれません。



これを「癒し」のコミュニティと名付けます。






自分にとって「成長」できるコミュニティと、


自分が居心地の良い「癒し」のコミュニティは異なる。




人には思っている以上に

たくさんの属しているコミュニティがあります。




みなさんが家族や友人、仲間、仕事関係、趣味、地域、

様々なコミュニティに属する中で、




「成長」と「癒し」、「調和をとるために必要なもの」・・・



同じように見えるコミュニティでも、

カテゴライズすると、

そのコミュニティの意味するものはそれぞれ異なります。



そのコミュニティの
「自分」にとってのカテゴリーを意識することで、



属するコミュニティに振り回されることなく、


割と気軽に、時にさっぱりとした距離感を
保てるかもしれません。




ここを分けて考えられると、



不必要に自分を責めたり、

必要以上に悩んだりすることがなくなっていきます。




自分の「成長」にあわせてコミュニティは変化するからです。




それは、自分にとって自然な変化であり、



日々成長し、
変態(進化に伴い変化すること)している証
となります。







同様に、「成長」にあわせて

ツールも変化します。



ここで、ツールについても
語句の意味を整理します。



ツールとは、道具、工具、用具、手段、方法などの意味を持つ英単語。(IT用語辞典 e-Wordsより引用)



この場合、〈手段、方法〉という意味で語を用いますが、


こうなったらいいな、
の描いている目標があるとして、



この目標に近づき、鮮明に描けば描くほど、

その目標により近づくために

〈手段や方法〉は変化します。



わかりやすく言うと、アプローチ方法が変化する、
ということ。




大抵、夢が鮮明になってくるほど、

その実現に向かって、あれもやってみよう!
これもやってみよう!とアイディアが湧いてきます。


その方がより早く、実現できると思い
様々なアプローチ法が頭に浮かんでくる。



「成長」にあわせてツール〈手段や方法〉が変化する、良い例です。





「成長」にあわせてコミュニティやツールが変化することは、すごく自然なこと。




自分がまっすぐに伸びてきたからこそ、
感じられる正常な変化です。




その変化を前向きなものとして、
しっかりと受け入れる。




ここを悩んだり、
ストップをかける必要はありません。



ありのままで。




無理に人に合わせたり、
ペースを落としたりする必要は

決してないのです。




今日も、あなたの向かいたい方、
進みたい方に向かって
進める大切な一日となりますように。



私もまた今ある環境、仲間を大切にして
過ごす日々を大切にしていきます。